2022年4月14日木曜日

『アンネの日記』に関するWikipedia記述の出典を探す(前編)

前にご紹介した『アンネ・フランクの密告者』ですが、どうやらオランダでは絶版・回収が決定したとのこと。Amazonで見ると日本語版と英語版は普通に販売されているようです。個人的には絶版・回収よりも反論本を出してほしいなと思いますが…。

それはさておきアンネ・フランクの話、もう少し続きます。

アンネ関連の本をまとめて読んだ時だと思いますが、気になったことがありました。Wikipedia「アンネの日記」にある次のような記述です。

日本語訳の初版が出版された当初のオランダでは、日本がこの本を発行することに対する抵抗が強かった。原因はかつてオランダは、アジアに持っていた植民地であるインドネシアにおいて、大日本帝国と対峙し追い出された上に、かつて大日本帝国がナチス党政権下のナチス・ドイツの同盟国であることが原因と思われる。訳者の1人が、アムステルダムの本屋で、アンネ・フランクについての文献を探していたところ、市民らから「お前たち日本人に、アンネのことが分かってたまるか!」と店から追いだされたり、本屋によっては「日本人にはアンネの本は売れない」と拒否されたという(訳者の一人の「解説」より)。

これを読んで「何か変だな」と思ったのです。こんなこと本当にあったのでしょうか? 「訳者の一人の『解説』より」という書き方も何だかいい加減というか、出典の書き方としてWikipediaの基準をクリアしているとは思えません。

検索してみても、出てくるのは上記の記事をソースにしているブログ等ばかりで、出典がわからないのです。

「日本語訳の初版が出版された」のは、オランダ語版オリジナルが出版されてから5年経った1952年(昭和27年)です。簡単に海外へ行ける時代ではないし、行ったところで文献など殆どないでしょう。

また、関連する本をいくつか読んだ限り、その当時オランダ国内に「抵抗が強かった」と言えるほどの空気があったとも思えません。最初に出版を決めた時も「ようやく戦争が終わったのに今さら暗い時代の話なんて」「無名の少女が書いた日記など誰が読むのか」と言われ、版元がなかなか見つからなかったぐらいです。出版後、日記は事前の予想より高く評価されて増刷を重ねていましたが、まだそこまで強い反応を引き起こす存在ではなかったと思います。アンネ・フランクがある種のアイコン的存在になったのは、舞台や映画などのアダプテーション作品が浸透した60年代以降のことではないでしょうか。

「訳者の一人」が本編の訳者だとすると、皆藤幸蔵氏か深町眞理子氏ということになります(最初に調べ始めた時は思いつかなかったのですが、正確には『アンネの童話集』の訳者さんも入りますね)が、最新版の『アンネの日記』(増補新訂版)にそんな解説はありません。

皆藤訳は何種類もバージョンがあるので後回しにして、まずは1978年の「『アンネの日記』展」図録(古書店で購入できます)の内容をご紹介します。ここに皆藤氏がコラムを寄稿しており、日記を訳すことになった経緯が詳しく書かれています。皆藤氏は「TIME」誌の書評を読んで興味を持ち、文藝春秋社に話を持ち込んで版権を獲得。ニューヨーク在住の知り合いに電報を打って原書を取り寄せ、出版まであまり時間がなかったため大急ぎで訳したとのことです。手記には、その20年後にアムステルダムを訪れてオットー・フランク氏と面談したことも載っていましたが、上記のような内容は一言も書かれていません。

時代的には、皆藤氏よりも深町眞理子氏の方がありそうな気がしました。上に書いた『増補新訂版』の前にも『新訳版』が1986年、『完全版』と『研究版』が90年代に出版されています。この時代なら海外へも簡単に行けるし関連する文献もいろいろ出ています。特に『研究版』の翻訳には取材や調査が必要だったのではないでしょうか。

というわけで図書館で新訳・完全版・研究版など複数のバージョンを確認しましたが、そういった記述はまったく見つかりませんでした。日記本編ではなく他の本の「解説」なのでしょうか。Wikipedia の編集履歴をたどってみたところ、上記の記述が追加されたのは2007年ですから、それ以前に発行されたものということになります。

小川洋子著『アンネ・フランクの記憶』角川文庫版(1998年)には深町氏が解説を寄せているので、これかも!と思って読んでみましたが違います。解説の最初の方には、確かに第二次大戦中の日本の加害行為との関連について書かれてはいるものの


「"日本人は加害者のくせに被害者面ばかりしすぎるのではないか"、そう言いたい気持ちがどこかにひそんでいると見ているが、それはさておき」と、あっさりしたもの。書店から追い出されたりするような強烈な体験があったようには思えません。解説内で言及されている『アンネ・フランク 心の旅路』も読みましたが、こちらも「戦時中の体験に基づく反日感情」について軽く触れられていた程度でした。ちなみにこの『アンネ・フランク 心の旅路』は、ジュニア向けに書き改めて新情報を加えたものが『アンネ・フランクに会いに行く』として新しく出版されています。

東京都立図書館のリファレンスサービスにも問い合せてみましたが、手がかりは見つかりませんでした。この時に皆藤版の方も調べてもらいましたが、該当する「解説」は都立図書館に所蔵されるどの版にも記載されておらず、雑誌記事などにも見つからないとのことです。

何だかもう、このへんで「やっぱ作り話なんじゃねーの?」みたいな気持ちになってモチベーションがガクッと下がってしまいました。ウソくさいと言っては失礼ですが正直ウソくさいし、そんなあやふやな話の出典よりも、日本やその他の国での受容史やさまざまなメディアへの浸透などの方に関心が移ってしまったのです。そういう点では以下の2冊が面白かったですね。


Anne Frank: The Book, The Life, The Afterlife


Anne Frank Unbound: Media, Imagination, Memory (The Modern Jewish Experience)

もう1冊、↓こちらはまだ未読ですが、これから読みたいと思っています。


The Phenomenon of Anne Frank

そんなこんなで、Wikipedia の「出典探し」は頓挫してしまっていましたが、今回『アンネ・フランクの密告者』をきっかけにもう一度関連資料をまとめてみようとしたところ、何と出典らしきもの――というか、出典の可能性がある記述が見つかりました!長くなってしまったので2回に分けます。


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