アンネ・フランクの話がまだ続きます。今回はエルンスト・シュナーベルによる Anne Frank: Spur eines Kindes の訳書2冊とその内容について。
訳書2冊と書きましたが、厳密には少なくとも4種類発行されています(私が確認したものだけなので、他にもあるかも)。
- 1958年『アンネのおもかげ』みすず書房
- 1968年『悲劇の少女アンネ』偕成社 ※新版1991年
- 1969年『少女アンネの悲しみ』偕成社
- 1978年『少女アンネ―その足跡』偕成社
1969年版は、前回の記事を書いた後に偶然Instagramで知りました。
https://www.instagram.com/p/CcPBCnuhOOZ/
上の画像は『挿絵画家 依光隆展』の出典作品で、説明には『世界のこどもノンフィクション2 少女アンネの悲しみ』の口絵とあります。依光隆さんは児童書の表紙や挿絵を多数担当されていて、私も子どもの頃によく目にしていました。雰囲気なつかしいですね~。画歴が長い(1957年に独立し2009年に引退)ので、なつかしいとか言っても年齢バレにくいですよ。
この『少女アンネの悲しみ』は『悲劇の少女アンネ』と同じく偕成社の発行で、さらに下の年代が対象らしいのですが、現在は絶版らしく偕成社のサイトには見つかりません。Amazonで探すと中古品が見つかりますが、よく見ると、あれ?
訳者が「久米元一」となっています。検索してみると、久米穣さんのお父上で、やはり児童文学者とのこと。なんと親子コラボでしたか!対象年齢としては、この『少女アンネの悲しみ』が小学校低学年、『悲劇の少女アンネ』が高学年、『少女アンネ―その足跡』が中学生以上くらいでしょうか。
さて本題です。『悲劇の少女アンネ』(以下『悲劇』)と『少女アンネ―その足跡』(以下『足跡』)の内容の違いについて。とはいっても、両方ともさっと目を通した程度であり、しっかりと内容を比較したわけではありません。ここでは印象に残った部分のみを紹介したいと思います。
『悲劇』は原書の「縮訳」とされていますが、読んでみると原書にない部分が追加されたりしているのですよね。両者の違いで印象に残っている場面を5つほど抜き出してみました。
1. ドイツに占領された後、学校が接収を免れる場面
『足跡』では、「セントラルヒーティングがないとわかるとあきらめて去ってしまった」と書かれているだけですが、『悲劇』ではアンネの発案で給湯の配管を隠すという偽装工作を行った話が数ページにわたって書かれています。
2. 友達をかばうアンネ
オランダがドイツに降伏した後、オットーはアンネに対し「私たちがユダヤ人であることを決して他人に明かしてはいけない」と言い聞かせますが、アンネは学校でユダヤ人の友達が攻撃されたのを見て「私もユダヤ人です」と言ってしまいます。自らの民族を誇りに思い、友を助けようとしたアンネの姿にオットーは心を打たれ「私が間違っていた」と自らを恥じるのですが、この場面は『悲劇』にのみ記載。
3. 「JOOB」の星
占領後、ユダヤ人は「JOOD(ユダヤ人)」と書かれた黄色い星を衣服に着けるよう強制されました。『悲劇』の方には、これに怒ったキリスト教徒のオランダ人が同じような黄色い星に「JOOB」と書いて身に着け、「これはキリスト教徒の印なんだよ」とドイツ人をからかったという話が書かれています。この話は『足跡』には見つかりません。
4. デュッセルさんが加わる場面
隠れ家には最初、フランク家の4人とファン・ダーン家の3人が住んでいました。そこにもう一人、歯科医のデュッセルさんが「匿ってほしい」と言ってくるのですが、ファン・ダーン夫妻は「ただでさえ手狭なのに」と反対。しかしアンネは「私は小さいから椅子を並べても眠れます」と言い、進んで自分のベッドを提供すると申し出ます。この場面は『悲劇』にのみ記載。
5. ファン・ダーン氏への叱責
潜行後ファン・ダーン氏がコーフュイス氏に「タバコが手に入らないだろうか」と言った時、アンネは「コーフュイスさんは私たちのために大いに骨折ってくださっているのだから、これ以上そんな頼みごとをするべきではない」と叱責。その後、アンネはコーフュイス氏にとっておきのコーヒーをふるまい、自作の話を読んで聞かせたとのこと。この場面は『足跡』にのみ記載。
以上、比べてみるとどうでしょうか。『悲劇』に追加されたエピソードには、「侵略者」としてのドイツ人たちに知略で立ち向かう、昔の言葉で言うと「ギャフンと言わせる」場面があり、またアンネが危険をかえりみず友をかばったり、同胞のために自らすすんで犠牲を払うところが強い印象を残しています。それに対して年配の男性を叱責するという場面は『悲劇』から削除。何というか、ある種の意図を感じますね。
3の「JOOB」については、同じ話が黒川万千代さんの『アンネ・フランク その15年の生涯』にもあり「オランダ軍政部報告は記録しています」と書かれているので、実話なのでしょう。久米氏が調査過程で知ったことを盛り込んだのではないでしょうか。
『日本児童文学大事典』を見ると、久米穣氏は「執筆・翻訳に当たっては徹底した調査・検分を行う姿勢を貫き、主人公とかかわった人物からの取材、原作者への確認作業をとおして、歴史のかくされた真実を正確に伝えようとしている」と評価されています。『悲劇』の「あとがき」にも、久米氏がシュナーベル氏にならってアンネの足跡をたどり、ゆかりの地を調査したことが書かれています。この時点で原書が出てから10年経っているわけですから、新しい証言が得られたという可能性はありますね。1のような工作も、アンネの学校ではなくても別の場所であった話なのかもしれません。
とはいえ、4のデュッセルさんの話は『日記』を読むとちょっと信じられないですね。
ファン・ダーン氏を叱責したというのも、正直本当かしらと思ってしまいますが、こちらはコーフュイス(コープハイス)氏から直接聞き取った話のようですし、アンネは母親やファン・ダーン夫人から言葉使いをいつも注意されていたらしいので、本当にあったのかもしれません(記憶違いという可能性は残りますが)。コーフュイスというのは、隠れ家の協力者の一人で、確か本名ヨハンネス・クレイマン氏の方だったと思います。
『悲劇』のあとがきで、久米氏は「なによりうれしかったのは、アンネが聖少女ではなかったことだった」と書いているのですが、どうでしょう。『日記』と読み比べてみると、『悲劇』に書かれたアンネの方がよっぽど「聖少女」に見えるのですが……。
ところで、『足跡』の解説には「本書では、アンネに生前かかわりをもった人たちは、イヨピーの母親をのぞいてはひとりのこらず、アンネのことを非凡とも、なみはずれた才能の持ち主とも評価していないのです」という文があります。しかし、この唯一の例外だった証言も、後年になってイヨピーさんご本人からダメ出しされています。
この「イヨピー」はアンネの親友だったジャクリーヌ・ファン・マールセンさんですが、この方は1990年に『アンネとヨーピー』という本を出版し、その中でシュナーベル本について「母がおよそいいかげんな話を並べたてていた」「いったいどこからこんなでたらめを思いついたのかしら」と書いているんですよね。その頃ジャクリーヌさんの家には電話がなく、シュナーベル氏はアポなしで訪れるのですが、その日はたまたま夫婦で外出していたらしいのです。それでお子さんの面倒をみていたお母さんが「私の方が詳しく覚えていますよ」と言ってインタビューに応じたらしいのですが……その後、ジャクリーヌさん本人に確認を取るとかはしなかったのでしょうか。
そういうこともあって、このシュナーベル本(原書)自体、現在では信頼度があまり高くないように思いますが、アンネ・フランクに関するまとまった伝記としては初めての、かつ80年代くらいまではおそらく唯一の資料だったはず。日本では後年に出た伝記類が次々に入手困難となる中、この2冊のシュナーベル本はロングセラーとして生き残り続けています。さらに「児童書」として訳されているため、日記本文より前にこれらの本で「アンネ・フランク」像に接したという人も多いのではないでしょうか。
長々と書いてきましたが、そもそも私が「日本におけるアンネ・フランク像形成」の歴史や経緯に興味を持った最初のきっかけは何だったのか。これも2014年の破損事件の頃にさかのぼるのですが、これはまた次の機会に書くことにします。
はじめまして!
返信削除「悲劇の少女アンネ」、小学生の時に読みました。
アンネがリース(ハンナ・ホースラルさん)を庇って一緒に退学したという話が とても印象的だったのですが、その後に読んだ どのアンネ関連本にも、そのエピソードは出てこなくて・・・おかしいな~と思ってたんです。
>1のような工作も、アンネの学校ではなくても別の場所であった話なのかもしれません。
久米穣さんが取材の過程で知った、あの時代に何処かであった話を、「アンネが通っていた学校で アンネの発案だった」ことにして書いたのだとすれば「捏造」ですよね…?
そんなこと許されるのかしら?(^^;)
あるいは久米さんに悪意はなく、 ヨーピー(ジャクリーヌ)のお母さんのように いい加減な情報を吹き込む人がたくさん、いたのでしょうかね?
Unknownさん、コメントありがとうございます。コメントを頂いていたのに気づいていなくて、承認が遅くなってごめんなさい。(>_<)
削除私自身はこういう「捏造」は許されないと思っています。諸事情で「省略」はあるとしても原文にない話を加えちゃダメでしょー!と思うんですよね。仮に調査過程で聞かされていたとしても、それは別の本として書くべきではないでしょうか。