2024年4月30日火曜日

「大吉原展」その2・展示感想編

東京藝術大学大学美術館で開催中の「大吉原展」について。開催前の炎上騒動については前回詳しく書きました。今回は展示内容についての感想です。

その前に、大事なことなので前回の注意事項を繰り返しておきます。

  • 図録は大きくて重い。東京新聞のサイトから通販可
  • ひととおり見るだけで2時間は必要(個人差あり)
  • 展示室に作品リストが置かれていない(4月12日の状況)

展示は大きく3つのパートに分かれています(タイトルは私が勝手に付けました)。

1. 吉原入門

最初にこのパートで吉原という街全体の構造や遊郭での1日の流れが解説されます。吉原を描いた作品では、近くに設置されたモニターに拡大映像が映され、描かれているモチーフの解説が見られました。通常はパネル解説が多いのですが、モニターの方がわかりやすいですね。

このパートでは、妓楼の内部を描いた国貞の《青楼二階之図》も面白かった。細かく描き込まれているので情報量が多く、つい時間をかけて見てしまいます。まだ最初のパートなのに!

2. 吉原の歴史

次の会場では、江戸に幕府が開かれて遊郭が設置されてから近代までの遊郭の様子や遊女の美人画、歴史資料などを時系列に沿って鑑賞。美人画の変遷、狂歌の流行などを経て近代へ。この時代になると、やはり現代との「地続き感」が強くなります。明治以降は激動の時代のせいか展示は少々駆け足な印象がありました。でも詳しく追っていくとそれだけでひとつの展覧会が必要になるのでしょうけど……。

印象に残ったのは、一度廃止された花魁道中を大正時代に復活させたとき、花魁として道中を行った白縫が、重厚な衣装や装身具を身に着けて見世物として歩かされるのは虐待であり人権侵害だとして自由廃業したというエピソード。これを展示しながら「お大尽ナイト」を企画することに矛盾はありませんか?(この話は図録にも記載されており最初から展示内容に含まれていたはず)

明治初期、芸娼妓解放令によって遊女は建前上いつでも廃業できることになりました。しかし借金に縛られて働かざるをえない状況は変わらず、一方で「好きでやっているのだから」と世間の目は冷たくなっていったというところに現代の「自己責任論」に通じるものを感じました。

歴史は近代で終わっています。現代の吉原ソープ街には触れられていませんでした。もはや文化の発信地ではなくなってしまったからでしょうか。そこに上記の「世間の目」に通じる冷たさを感じずにはいられませんでした。

以上が地下の第1、第2会場の内容です。

3. 吉原の文化と四季

エレベーターで3階の第3会場へ向かうと、入口付近に舟の模型が展示されており、会場は真ん中に通路、両側に壁で仕切られた小部屋がいくつかあるというレイアウトになっています。吉原の仲の町(中心の通り)とその両側にある引手茶屋を模しているようです。堀で囲まれた吉原へ舟で向かい、門をくぐって吉原に入るという演出になっているんですね。吉原の街を思わせる構成ではあるのですが、実際に町を歩いているような気持ちになるかというと、そこまで作り込まれてはいなかったな、という感じで何だか中途半端です。

突き当りのところに辻村寿三郎さんの《江戸風俗人形》が展示されており、ここが第4会場です。この模型がすごくて! これひとつだけでもずーっと見ていられますよ。内装も細かく作られていて、風神雷神図屏風がある! と興奮。そうか屏風ってこう使うんだ、と改めて思いました(普段は美術館の「展示」状態で見ているから)。ここは写真撮影OKです。

そしてまた通路を戻って場内一周。四季を巡りながら吉原に集う客たちが楽しんだ文化、遊女たちの装い、花魁の教養、お道具類、季節ごとの習俗や行事などをひととおり見ることができました。全体として「華やかな部分」だけでなく、その華やかさを担ってきた女性たちの日常的な労働なども見せるような構成になっていたと思います。

最後の方、吉原の「仮宅」の紹介で胸の痛くなる記述がありました。吉原では何度も火災が発生し、そのたびに「仮宅」で営業していましたが、待遇のひどさに耐えかねた遊女が火を付けるという事件が少なくなかったことです。その近くには国貞の《北国五色墨》が展示され、遊郭にいたのは華やかな花魁だけでなく、安価な切見世の遊女など、さまざまな階層があったことが示されます。数で見ると少ないのですが、吉原の負の部分もちゃんと取り上げていますよ、という姿勢は感じられました。

展覧会の全体はこんな感じです。写真付きの詳しいレポートの記事をいくつかリンクしておきます。

前回書いたように、この展覧会は詳細が発表された時点で「吉原の華やかな部分だけを強調し、人身売買や強制売春など人権侵害を無視しているのではないか」という批判が起きたという経緯がありました。それがどの程度影響しているか定かではありませんが、主催者によると展示内容や構成を大きく変更したわけではないとのことです。確かに、吉原の近代に関する資料や切見世の下級遊女については上述したとおりですし、図録にもしっかり載っているので批判を受けて付け足したものではないはず。

ただ、3階のレイアウトはかなり簡素化されたのではないかと思います。それが上述した中途半端な印象を生んだのでしょうか。ネットに残っているプレスリリースの画像を見ると、吉原大門や見返り柳のイラストが入っているんですよね。

また、新聞記事で紹介される作品にもちょっと変化があったような気がします。今回の主催者である東京新聞、私はデジタル版で購読しているのでちょっと過去記事を探してみました(本文は判読できないようにしてあります)。赤い枠は私が付けたのですが、この枠で囲んだ作品にご注目ください。下の記事にも同じ作品がありますね。


2024年03月21日 東京新聞 朝刊 15頁


2024年04月01日 東京新聞 朝刊 15頁

これは国貞の《北国五色墨》のうちの1枚で、切見世と呼ばれる下層の遊女を描いたもの。花魁、内証の女房、河岸、切見世、吉原芸者を描いた5点がワンセットになったうちの1点です。これ、チラシにも載っていないし特に有名作品というわけではないと思うんですよね……。展示室でも奥の方の一角にあって地味な扱いでした。展覧会の目玉作品は何といっても歌麿の《吉原の花》、由一の《花魁》と上記《江戸風俗人形》が「三役」で、それと比べると正直「ちょっと場違い?」な感じです。……って、切見世ちゃんごめん! でも前回紹介した声明にあった「女性差別の負の歴史をふまえて展示」をアピールするために急遽抜擢された印象がどうしても拭えなくて……勘繰りすぎかなぁ。いやいや、おかげでしっかり注目できたのは良かったです。

というわけで。前回書いたように展示されていた作品は素晴らしいし、構成や解説もわかりやすく充実した展覧会だと思いました。でも、何か足りないというか違和感があるというか、何かが違う感じがずっとつきまとっていて離れないのですね……何が足りないんだろう?

吉原の歴史も構造も行事も遊女の生活も紹介されているし、あと何がないかというと春画くらいじゃない?

……と思ったとき、決定的に足りないのはそれだと思えてきました。つまり性売買の場でありながら性に関する具体的な情報がない。「性売買」「性搾取」という言葉はあったかもしれませんが具体性に欠ける言葉だけで、どこにもつながっていない。展示内容はとてもきれいだったけど、きれいすぎるんです。上述した「華やかなだけでない」日常の場面や切見世も含めてきれいすぎる。チラシからも展示室からも、図録(まだ全部読めてないけど見た感じ)からも性的な要素が除去され、ある意味「清潔な」吉原がそこに残されているように思いました。性的なものを除去したのなら、現代のソープ街が一顧だにされないのも当たり前すぎる話だったのです。

「女性への人権侵害」という言葉は繰り返し使われていましたが、吉原の「負の歴史」は過酷な生活をしていた下層の遊女がいたことだけではありません。昼見世と夜見世で食事も睡眠もまともに取れなかったのは確かに問題ですが、超一流の花魁であっても商品として扱われ、性を売らされるという遊郭の中枢機能がまず重大な人権侵害だったのに、そのことが伝わってこない。

もちろん、題材が題材ですからあからさまな展示が難しいことはわかります。また、性の要素をあえて除去することで見えてくるものがある、ということも確かでしょう。しかし、それにしても……と思うのです。いっそ中途半端なステートメントではなく「性搾取の件は承知しているが展示は無理です」と言うべきだったのではないでしょうか(もっと炎上するかな…)。

前回にも紹介したNewsweekの記事には「吉原を江戸の視点で『そのままに捉え直す』」「性的搾取があった事実を前提として」といった文言がありました。吉原の中心的な機能であった性の要素を展示室から除去してそれを実現することは果たして可能なのか。そこに大きな矛盾があるのではないか。その疑問への答はまだ見つけられていません。

「大吉原展」鑑賞ノート


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